Bengkuluの思い出 (2) スカルノの家 [Indonesia]
Bengkuluは初めてのことが多かった。白タクの次はインド洋、そして、オジェックだ。
売店の店主が、店を閉めると、ヘルメットを貸してくれた。
売店の商品越しに話している時には気がつかなかったのだが、店から出てくると、彼は女性だった。特にボーイッシュというわけではないのだが。
おぶってもらうわけじゃなく、バイクに乗せてもらうのだから、こちらの体格が大きくても気にすることないか。交渉成立しちゃったし。
と、まず連れて行ってくれたのは、Bungkarnoブンカルノ(つまりスカルノ元大統領)の隠れ家。ここに滞在中に第3夫人Fatmawatiファトゥマワティと出会った。
門の外には、物売りもいて、賑わっている。
スカルノはバンドン工科大学で技術を学んだ後、政治活動を開始した。ただし一旦、浪人生活に入り、その際にこの地に潜んでいたという。ファトゥマワティと恋に落ちて、当時の夫人と離婚し、結婚した。夫のインドネシアの独立運動を支え、初代大統領の夫人となった。
スカルノは生涯で9回結婚したようだ。ファトゥマワティと結婚した後、別の女性との再婚を希望し、ファトゥマワティに離婚を申し入れたが、拒否された。そして、生涯、ファトゥマワティとは法律上の離婚は成立していない。
即ち、その後の6人の夫人はイスラム法上の婚姻なのだろうか。
ファトゥマワティは、ミナンカバウの王族の末裔のようだ。また、ファトゥマワティとの間にできた娘が、第5代大統領のメガワティとのことだ。
スカルノは、現在でもインドネシア人に慕われているが、この夫人ファトゥマワティもインドネシア人には慕われており、通りの名前やBengkuluの空港もファトゥマワティの名前を冠している。
門から邸宅まで大きな前庭になっている。
曲がりくねった小みちもなかなか上品で、なるほど良家だったのかと思わせる。
邸宅の拝観にはたくさんの人がいる。
内部には設計図が展示されている。設計図を引いてから建設された邸宅というのは、いかにも贅沢さを感じる。
日本でいう鴨居の部分に装飾が施されていたり、壁と木材が塗り分けられていたりと上品だ。
天井が高く、部屋の狭さを感じさせない。
そして、各部屋に靴ずりがあるのだが、靴ずりにも装飾が施されている。
裏口を出ると物干しや水場がある。
とても良い建物で、見応えがあった。
売店の店主も案内しながら、中を一周した。
次はマルボロ砦だ。
砦に行く途中で、雨が降り出し、留守にしてきた店が気になったのか、店主が「マルボロ砦でドロップしたら、戻って良いか」という。もちろん、構わない。
マルボロ砦で、別れた後、一人で中に入っていく。
砦というだけあって、堀や要塞の壁がそびえている。
壁を越えると壁は円形になった建物の外側の壁の部分であることがわかる。円形になった建物の内側は緑地になっていて、花壇にもなるのだろうか、平和な印象を受ける。
門から入って要塞内部へと導いた道をそのまま進むと円形の建物の反対側の門を突き抜け、再び外に出る。
入り口側とは異なり、海が見えて、周辺の地盤は低くなっていて、砦は高く見える。砦に至る斜面はかつては崖だったのだろうが、現在は緑が豊かな芝生になっている。壁には窪みがあり、当時の鉄砲だろうか、弓矢だろうか、相手を攻撃しやすく工夫されている。
遠くにはインド洋が見える。
港になっているようにも見える。
昔は、同じような景色で敵の船が攻めてきて、上陸してくるのが見えたのだろう。
艦船に対しては、このような大砲で応戦したのだろうか。
手入れが悪いのも手伝って、荒々しく見えて、ここでたくさんの血が流されたのだろうと、想像してしまう。
Bengkuluやこの要塞は、イギリスが統治していた。かつて、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社が覇権を争っていた頃、インドネシアはほとんとの地域をオランダが統治に成功していた。唯一Bengkuluだけが、イギリスの支配下だった。
オランダが支配していたシンガポールとBengkuluを引き換えにシンガポールがイギリス領に、Bengkuluはオランダ領になり、インドネシアはオランダ植民地になった。
Bengkuluの名前はイギリス軍にBenkoolenという提督がおり、それにちなんでいるという。シンガポールにBenkoolenという地名があるので、同じ提督に因んでいるのだろうか。
さて、砦を見た後は、再び移動手段がなくなってしまった。砦は比較的街中にあり、小型バスのアンコットも走っていた。アンコットは定められたルート上で、歩いている人を見つけては、声をかけてくる。
昼食をしていないので、何か食べたい。その辺にあるものだと不安なので、モールがあるなら、何かあるだろう。ということで、声をかけてきたアンコットに「近くにモールはある?」と聞き返すと、「あるよ、でも、ルート上ではない。」と答えてきた。
「タクシーの電話番号知ってる?」空港にタクシーがいないとはいえ、呼び出せば乗れるタクシーはあるのではないか。
「いやぁ、知らない。それなら、乗って行きなよ。」近くで降ろしてくれるのかな。「ルートに無いって言ってたけど良いの?」
「まぁ、連れて行ってやるよ」と親切だ。
小さな街だ、歩ける距離では無いが、すぐに着いた。
お金を渡そうとしたら、ためらってはいたが、受け取ってくれた。
モールで食べた後は、モールの案内係にタクシーの番号を聞いてみた。そしたら、知らないというが早いか、近くで立っている別の客に「この人タクシー探しているんだけど、番号わかる?」と聞く。何人かに聞いたら、知っているという女性が現れた。電話は、さらに別の青年が出てきて、かけてくれた。
日本人がよっぽど珍しいのか、いろいろな人が親切にしてくれて、無事タクシーに乗って空港に向かった。
空港に着いてから、再び夕立があり、まだ濡れている滑走路から、ジャカルタへ戻った。
売店の店主が、店を閉めると、ヘルメットを貸してくれた。
売店の商品越しに話している時には気がつかなかったのだが、店から出てくると、彼は女性だった。特にボーイッシュというわけではないのだが。
おぶってもらうわけじゃなく、バイクに乗せてもらうのだから、こちらの体格が大きくても気にすることないか。交渉成立しちゃったし。
と、まず連れて行ってくれたのは、Bungkarnoブンカルノ(つまりスカルノ元大統領)の隠れ家。ここに滞在中に第3夫人Fatmawatiファトゥマワティと出会った。
門の外には、物売りもいて、賑わっている。
スカルノはバンドン工科大学で技術を学んだ後、政治活動を開始した。ただし一旦、浪人生活に入り、その際にこの地に潜んでいたという。ファトゥマワティと恋に落ちて、当時の夫人と離婚し、結婚した。夫のインドネシアの独立運動を支え、初代大統領の夫人となった。
スカルノは生涯で9回結婚したようだ。ファトゥマワティと結婚した後、別の女性との再婚を希望し、ファトゥマワティに離婚を申し入れたが、拒否された。そして、生涯、ファトゥマワティとは法律上の離婚は成立していない。
即ち、その後の6人の夫人はイスラム法上の婚姻なのだろうか。
ファトゥマワティは、ミナンカバウの王族の末裔のようだ。また、ファトゥマワティとの間にできた娘が、第5代大統領のメガワティとのことだ。
スカルノは、現在でもインドネシア人に慕われているが、この夫人ファトゥマワティもインドネシア人には慕われており、通りの名前やBengkuluの空港もファトゥマワティの名前を冠している。
門から邸宅まで大きな前庭になっている。
曲がりくねった小みちもなかなか上品で、なるほど良家だったのかと思わせる。
邸宅の拝観にはたくさんの人がいる。
内部には設計図が展示されている。設計図を引いてから建設された邸宅というのは、いかにも贅沢さを感じる。
日本でいう鴨居の部分に装飾が施されていたり、壁と木材が塗り分けられていたりと上品だ。
天井が高く、部屋の狭さを感じさせない。
そして、各部屋に靴ずりがあるのだが、靴ずりにも装飾が施されている。
裏口を出ると物干しや水場がある。
とても良い建物で、見応えがあった。
売店の店主も案内しながら、中を一周した。
次はマルボロ砦だ。
砦に行く途中で、雨が降り出し、留守にしてきた店が気になったのか、店主が「マルボロ砦でドロップしたら、戻って良いか」という。もちろん、構わない。
マルボロ砦で、別れた後、一人で中に入っていく。
砦というだけあって、堀や要塞の壁がそびえている。
壁を越えると壁は円形になった建物の外側の壁の部分であることがわかる。円形になった建物の内側は緑地になっていて、花壇にもなるのだろうか、平和な印象を受ける。
門から入って要塞内部へと導いた道をそのまま進むと円形の建物の反対側の門を突き抜け、再び外に出る。
入り口側とは異なり、海が見えて、周辺の地盤は低くなっていて、砦は高く見える。砦に至る斜面はかつては崖だったのだろうが、現在は緑が豊かな芝生になっている。壁には窪みがあり、当時の鉄砲だろうか、弓矢だろうか、相手を攻撃しやすく工夫されている。
遠くにはインド洋が見える。
港になっているようにも見える。
昔は、同じような景色で敵の船が攻めてきて、上陸してくるのが見えたのだろう。
艦船に対しては、このような大砲で応戦したのだろうか。
手入れが悪いのも手伝って、荒々しく見えて、ここでたくさんの血が流されたのだろうと、想像してしまう。
Bengkuluやこの要塞は、イギリスが統治していた。かつて、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社が覇権を争っていた頃、インドネシアはほとんとの地域をオランダが統治に成功していた。唯一Bengkuluだけが、イギリスの支配下だった。
オランダが支配していたシンガポールとBengkuluを引き換えにシンガポールがイギリス領に、Bengkuluはオランダ領になり、インドネシアはオランダ植民地になった。
Bengkuluの名前はイギリス軍にBenkoolenという提督がおり、それにちなんでいるという。シンガポールにBenkoolenという地名があるので、同じ提督に因んでいるのだろうか。
さて、砦を見た後は、再び移動手段がなくなってしまった。砦は比較的街中にあり、小型バスのアンコットも走っていた。アンコットは定められたルート上で、歩いている人を見つけては、声をかけてくる。
昼食をしていないので、何か食べたい。その辺にあるものだと不安なので、モールがあるなら、何かあるだろう。ということで、声をかけてきたアンコットに「近くにモールはある?」と聞き返すと、「あるよ、でも、ルート上ではない。」と答えてきた。
「タクシーの電話番号知ってる?」空港にタクシーがいないとはいえ、呼び出せば乗れるタクシーはあるのではないか。
「いやぁ、知らない。それなら、乗って行きなよ。」近くで降ろしてくれるのかな。「ルートに無いって言ってたけど良いの?」
「まぁ、連れて行ってやるよ」と親切だ。
小さな街だ、歩ける距離では無いが、すぐに着いた。
お金を渡そうとしたら、ためらってはいたが、受け取ってくれた。
モールで食べた後は、モールの案内係にタクシーの番号を聞いてみた。そしたら、知らないというが早いか、近くで立っている別の客に「この人タクシー探しているんだけど、番号わかる?」と聞く。何人かに聞いたら、知っているという女性が現れた。電話は、さらに別の青年が出てきて、かけてくれた。
日本人がよっぽど珍しいのか、いろいろな人が親切にしてくれて、無事タクシーに乗って空港に向かった。
空港に着いてから、再び夕立があり、まだ濡れている滑走路から、ジャカルタへ戻った。
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